・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昔の話 1 知らないでしょう 僕がどんなにあなたを好きだったかなんて 知らないでしょう 僕がどんなにあなたを嫌いだったかなんて 相反する二つの想いは たしかに統合されたひとつの意思であって 今あなたの側にいることを選んでいることも 平静なフリをしているのは それを知られてしまうと まるで負けを認めるみたいで悔しいから なんて子供っぽい理由 少し 昔話をしよう まだ僕らが互いを知りえない日々のことを 始まりの日のことを 今になって振り返れば 全てはそこにあったように思う 「いつ」と問われれば「あの時」だと答えるだろう それが全て それだけが 全て 窓を叩く雨粒が夜半になって急に激しさを増してきた。 それに伴う風の強さも、 しきりに木々の間を駆け抜けて唸りをあげ、窓枠をきしらせる。 静まり返ったこの建物を悲鳴で包み込み、 夜の深みへと引きずり込もうとしているようだ。 寮内の薄暗く、奇妙に長い廊下を歩きながらエーリッヒは 窓ガラス1枚隔てた荒れ狂う景色を見やって身震いした。 別にこんな天候の時分に 夜歩きをする趣味は無いが まだ入って日が浅いために帰路に迷うことがままある。 寮内はどこも似た構造で 少しでも道を外れると厄介だ。 特に昼間に見慣れたそれと夜半ではその表情はガラリと変わる。 うっかり自室に辿り着けなくなってしまったのは 何もエーリッヒの不注意のみを責めるべきことではないだろう。 責めるとしたら、よりにもよってこんな夜に トイレに立ってしまったことかもしれないが。 「困ったな…ここはどのあたりなんだろう」 見渡して1年クラスの部屋であるのは間違い無さそうだが 肝心の自分の部屋がどの辺りなのかが分からない。 ルームナンバーの記載されていない扉群を恨めしそうに眺めやった。 こんなに分かりにくい構造なのに 目印らしきものが何もないのは問題だと思うのだが… 今設備に対しての不平を並べても解決には至らない。 観念して夜が明けるまで待つか… 恥を忍んで一階の宿直室を訪ねれば 部屋の場所を教えてもらえるかもしれない。 それが不可能でも最悪夜明けまではそこで過ごさせてもらえる。 どちらにしてもあまり格好のいい話ではないし 単調な生活に暇を持て余している諸先輩方に 格好のからかいの種を提供することになり、 なるだけ静かに学園生活を送りたかったエーリッヒにとって とても歓迎できる事柄ではなかった。 偶然にもその声を聞いたのは 覚悟を決めて階下へ向かう階段を探そうと踵を返した時だった。 それは声と言うにはあまりにも小さすぎたけれど 静寂に包まれた闇夜に それは不思議なほど耳に響いた。 深夜の物音にこの世ならざる者を連想して 思わず背筋を強張らせ息を呑んだが、 その声がどこか幼い子供の泣き声のようだと気づいて エーリッヒは無意識に声のする方へと視線をたぐらせた。 どこか聞き覚えのあるような しかしあまりにも印象と外れる声だ。 声は丁度通りかかった目の前の扉の奥から漏れたものだった。 こんな時間に自分の他にまだ起きている者がいようとは思わなかったが この扉の奥から聞えるのはどうも寝言ではなさそうだ。 意を決して扉に手をかけると 意外なほどあっさりとその扉は開かれた。 鍵もかけずに、不用心だなと思いつつも扉の向こうを窺う。 「誰かいるのか?」 こんな夜半に普通の来訪者であるはずがなく、 当然と言えば当然の誰何の声である。 そこはエーリッヒも承知の上なので大人しく答える。 「失礼します。 少し、道に迷ってしまったので…」 「こんな夜に?道に?」 訝かしみながらも追い出そうとする気配は感じられず エーリッヒは室内に歩みを一歩進めた。 そこで相手を確認して エーリッヒは今しがたの自分の覚えが間違いのないものだと確信した。 声の主はやはり「あの」シュミットだった。 「あの」というのには、「色々といわくつきの」とか 「鼻持ちなら無い不遜な」とか「クラスでも煙たがられている」とか 色々な形容があてはまるがどれもあまり良い響きではない。 殊にエーリッヒにとっては「自分を負かした」シュミットである。 少なくとも夜中の迷子などという不名誉な秘密を共有するのにはおもしろくない相手だ。 就寝時なので灯りがついていないのは当然だが 闇の中にぼんやりと認められる姿はエーリッヒと似たような(ただし素材は随分と上質そうではあるが)夜着に包まれている。 しかし着衣の上からでも感じられるほっそりとした肩はやけに寒そうだな、という印象を抱かせた。 こんな夜に、ベッドに入っていた形跡もない。 「さっきの泣き声、あなただったんですか?」 心底意外だ、という風に思わず口をついて出た言葉に エーリッヒはしまった、と思った。 「誰が泣いてなどいるか! 夜半に入り込んできて随分不躾だな」 案の定の叱り口調にエーリッヒは思わず首を竦める。 シュミットが夜中に一人泣くなどと可愛らしいことをするとは到底思えない。 大方風の音を聞き間違ったのだろう。 ここは非礼を謝って早々に退散するが吉と謝罪の文句を考えていると 相手は闇の中で不意に息を詰めた。 「お前は…」 「エーリッヒ・クレーメンス・ルーデンドルフです。 ご存知ないかもしれませんが、 一応あなたのクラスメイトですよ、シュミット。」 自分の迷い込んだ部屋がよりによってシュミットの部屋であることに 今夜の不運に尽きるな、と半ばなげやりになりながら一気にまくし立てる。 「ご丁寧にどうも。 でも予想を裏切って悪いが 知ってるよ、エーリッヒ。」 鼻にかかるような少しトーンの高い不思議な声で名前を呼ばれ、 その響きに奇妙な違和感を覚えるが、 実際のところその違和感がその声のせいなのか 相手が名前を知っていたことに対してなのかは分からなかった。 「意外ですね。 クラスメイトの名前、覚えてるなんて」 「何だよ、それ 私は記憶力は良い方だよ」 なるほどそれは嘘ではないだろう。 しかし今エーリッヒが言わんとしていたのは、そういう問題ではない。 事実、エーリッヒの友人の内で物好きな何名かが果敢にも彼と友達になるべく 何度か話し掛けてみたが、その誰一人として名前を覚えてもらうことに成功したものはなかった。 彼らはそろって「あいつはきっと人間には興味がないに違いない」と言うのだった。 エーリッヒもその考えには全く同感で 授業中も、休み時間も、放課後も 彼は全くと言っていいほど淡々と日々をこなしていた。 他人の干渉を阻むように。 そのくせ学力もスポーツででも他に適うものがないほど素晴らしい成績を収めている。 入学当初はその女性的とも言える整った容姿もあいまって興味を持つものも少なくなかったが、 興味本位で近づこうものなら、そのことを後悔するほど徹底的に排除される。 何よりも、口が悪い。 というか、相手の気持ちを顧みることをしない口ぶりに 次第に彼の周りには人が近寄らなくなってしまったのだ。 「……クラスで他に名前言える人、います?」 「…………………………………… ………………………いないな。」 シュミットはたっぷり5秒は考えてからそれを認めた。 もはや新学期から2ヶ月は経とうというのに、 エーリッヒ以外には名前も知らない。 いや、そんなにまでして他人に興味がないのに なぜ自分の名前だけは覚えているのか むしろそれがエーリッヒには疑問だった。 「僕、確かあなたとまともに喋ったことはないと思うんですが」 「ああ、ない」 「なぜ僕を? ええと…差し支えなければ、ですが」 「変なやつだと思って、印象に残った。」 「こないだ短距離走をやっただろう あの時、一緒に走って、私が勝った。」 コンマ2秒差で。 シュミットにとって、そのことは別段珍しいことではなかった。 誰にも負けたことなどなかったし、 特に労力を厭わずとも常に他者より抜きん出た存在だった。 ただ、走り終わってふと横を見ると 自分の負かした相手があまりにも厳しい顔をしてうなだれていたので。 額に汗を浮かばせて、膝にてのひらを預けて息を整える俯いたその表情は 今しがたの敗北がまるでこの上ない屈辱だとでも言うように歪められていた。 体育の授業の一環の、単なるタイム争いにこんなに真剣になるものだろうか。 不思議なものを見るようにシュミットが遠のいていく背中に見入っていると。 彼は友人の輪に加わり、「惜しかったな」「あとちょっとだったのに」などと 口々に投げかけられる労いの言葉に対して 実に晴れやかな笑顔で返していた。 まるであんなのは大したことではないと言うように 平気な顔をして。 「何で笑うんだ。」 めちゃくちゃに悔しかったくせに、一人のときはあんな顔をしていたくせに どうして、一瞬後にはそんな顔で笑えるのだろう。 その時初めてシュミットはその人物が色素の薄い欧州でも珍しいほどに 透き通った完璧な銀髪であることやその髪を引き立てるようにあらかじめ定められたような褐色の肌、 そして何よりも晴れ渡る空のように広く澄んだ青い瞳の持ち主であることに気づいた。 あんなやつがクラスにいただろうか。 そして友人らしき人物が呼ぶ「エーリッヒ」という名前を強烈に印象付けられた。 「エーリッヒ」 シュミットは口の中でそれを反芻して舌になじませるように何度か繰り返した。 それはありふれた名前ではあったが、 その少年にひどく似つかわしい名前だとシュミットは思った。 「お前、あの時私に負けて悔しかったんだろう」 「……」 やぶへびだな、とエーリッヒは思った。 まさかシュミット本人から直々に最もききたくない話をされるとは思わなかった。 シュミットにとってはどうでもいいことだと思っていたからだ。 「ええ、悔しかったですよ。 でもそれと僕が変なやつだって思うことに 何か関連があるんですか?」 「あのあとお前が笑ったからさ」 「は?」 「めちゃめちゃ悔しかったくせに、 笑ったりするからさ。 だから、変なやつだ」 ついでにその銀髪も、目立ってしょうがない。 「そんなこと言われたのは初めてですよ」 意外なことばかりだ 「あの」シュミットが自分の名前を知っていて 自分のことを面白そうに(というのがいまいち釈然としないが)話している。 自分の他に興味を払おうとしなかったシュミットが? こうして話していると他の友人らと変わらないように見える。 ひどく幼い目をするもんだな、と思った。 そして不意に思い出す。 自分がこの部屋に誘い込まれた理由を。 やはりあの泣き声の主は彼だったのだろうか? そう思うとシュミットの寒そうな細い肩がやけに気にかかった。 |