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夏病



うだるような暑さで目を覚ましたシュミットは
にわかには自分の居場所を理解できずにいた。
見上げた天井は見慣れたものとは少し違う風で。
それは差し込む光の加減からも明らかだった。
あんな位置に窓があっただろうか……?
視線を巡らせると少し離れた位置に見慣れない部屋の中で唯一見慣れたものを見つける。
同じく蒸し暑さにシーツを足元まで取り払ってしまったエーリッヒが寝返りを打った拍子に瞼をあげる。
薄く開かれた瞼にかかる銀の睫毛がその頬に僅かな影を落として
やがてその下に隠されたうすあおい瞳がこちらを捉えるのにそう時間はかからなかった。

「…暑いですね」
ため息をつくように言うと「これじゃ眠れない」と身を起こし、
うすく開けられていた窓を大きく開く。
夜空に冷やされた空気が部屋に流れ込むと幾分か湿度を落としてくれるように思えた。

もう9月も半ばをすぎたというのに
どうしてこう寝苦しい夜を過ごさねばならないのか。
故郷では毎年この時期にはそろそろ肌寒さの方が目立ってくる頃合だろうに。

シュミットはしかめっ面を隠そうともせずにエーリッヒに続いて窓際へ身を寄せる。

「向こうも夏は暑いものだが
 暑さの種類が違うじゃないか」

このむせ返るような湿気は曲者だ。
じっとりと肌にまとわりついて身体を重くさせ、息苦しさと相まって倦怠感を呼ぶ。

この暑さには逃げ場がないのだ。

「夜も暑いというのは
 さすがに適いませんね」

こんな中で眠っても果たして回復することができるのか甚だ疑問であった。
温暖湿潤性気候…まさか肌で体感することになろうとは思いませんでしたね、
いつか習った気候特性をそらんじながら、エーリッヒはシュミットに笑いかけた。

「ここで暮らせって言われても私は絶対住まないからな
 とりあえず夏だけは勘弁願いたいね」

「でも春と秋はいいでしょう?
 冬は…ドイツの方がいいかな」

「…私は冬はあんまり好きになれないんだが」

だって寒いじゃないか
そう言うと「それは冬ですから」と心底おかしそうに笑うエーリッヒの、
深夜という時間にすべりこんだ密やかな声に
ふっと涼やかな空気にさらわれる心地がしてシュミットは目を細めた。

冬は嫌いだ
寒くて暗いから

でも同じように夏も嫌いだと言うのだ
夏は暑くて日差しが強すぎると

結局はどの季節にだって難癖をつける

「確かにドイツの冬は厳しいですけど…
 春を心待ちにする雰囲気が好きなんですよ
 雪解けを待ってその先のことを暖炉の前で考える時間が」

夏でも雨や霧のひどい時分は凍えるほどの冷気を生むドイツでは
夏場にも暖炉に火をくべるのはそう珍しくない。
今頃にはそろそろ夜半、暖炉を囲んでいただろう。

思い出される
数々の日々が
夏の終わり
秋の始まり
冬への支度

今この遠い地で
蒸し暑い夜気に包まれながら
まさかこんなに懐かしい気持ちで思い出すとは
夢にも思わなかった。

「帰りたいのか?」

半分からかうような気持ちで
その思い出の殆どに当たり前のように馴染む
多くの時間を共有した者に問う。

「ええ…でも あと少しですから」

思えば半年とはいえ、自分よりも早くスタートを切っていたのだ。
そろそろそんな時期なのかもしれない。

「本当は 今よりもずっと
 シュミットが来る少し前の方が
 もっとずっと帰りたかったですよ」

思いがけず漏らされた弱音は
誰に聞かせるつもりでもない ひとり言のような態で
そっと風に運ばれて消えた。

「…悪かったよ」

ひとりにして

「いえ、いい経験でした。」
ふふ、と小さく笑ったエーリッヒの声音には先ほどのことなど知らぬように
去年の夏よりも少し大人びた色を持って空気を震わせる。

「初めてこんなに離れて
 帰りたくて
 懐かしんで」

生まれ育った町とも
慣れ親しんだ人々とも
こんな風に切なく情景を思い出すことなど考えも及ばなかった。
たったの一年でこうなら
あの土地を離れて暮らす時がきたら
それはどんなに慕情を誘うだろうか。

「でもシュミットが来た時に
 その思いは半分になりましたよ」

「素直に私に逢いたかったのだと言えば?」

「そうかもしれませんが…」

目元に笑みを湛えながら
ごく穏やかな表情で、拗ねたそぶりのシュミットを宥めるような口調でエーリッヒは続けた。

「あなたが来た時に故郷を半分取り戻した気がしたんです。
 空気を 連れてきてくれたから」

そして僅かながら郷愁に揺れる心に平静を取り戻したエーリッヒは気づいたのだ。
もう生まれてからこっち
決して長くはないが短くも無い道を共に歩んできた
その傍らに
自らの故郷を見出していることに

シュミットがこちらに来ることで
エーリッヒの故郷は半分彼の元へ「戻った」のだ

「…なんだ それは
 お前の故郷の半分も 私か」

理解するのに数秒の時間を要したものの、
シュミットはその言葉の意味を自分が正しく理解したことをエーリッヒの表情から見て取ると、 誇らしいような面映さで口元が綻ぶのを容易に抑えられないでいた。

「たったの半分か
 せめて口だけでも全部だと言えよ」

憎まれ口は照れ隠しのために。

時計の針はもう明日に近い
朝露を迎えるために徐々に冷えていく外気の心地よさが
二人の胸中を通り過ぎていく。

夏の夜空は思い出を誘い出す。
秋に近づくにつれ、
名残を惜しむようにたゆたう
朝の訪れが少しづつ延びていくように。
ごく密やかに
人々の心に少しの波風を立ててゆく。

それは決して不快なものではなくて
むしろ心地良さに近い切なさで

「いつか大人になった時に
 僕があの町を懐かしく思い出すのはきっと夏ですね」

夏の残り香が郷愁を誘うのだ。
寝苦しい夜は殊更に
懐かしい日々のことを思うだろう。

「その未来には
 勿論私も含まれているんだろうな?」

思い出の方には含むなよ、と
残り少ない夜明けまでの時間を
やっと眠るに相応しい環境を手に入れて
各々の寝場所に落ち着きながら、
問いかける というよりは
念を押すようにといった形容が相応しい口調で
確かめるように投げかけられたシュミットの言葉は

「さあ その時になってみないことには
 僕にも分かりませんね」

という余裕の態で流される言葉でかわされてしまった。

「…お前は離れてる間に
 すっかり可愛げがなくなったじゃないか」

憤懣やる方ないといった風情でシュミットはエーリッヒに悪態をつきながら
彼の明らかな変化を認識せざるを得なかった。

この晩夏の切なさが
少しずつ僕らを大人の境界へと
押し上げていくのだろうか

それは穏やかな海の波のように
ゆったりとしたスピードで
しかし、ごく罪深い速度で

胸のうちに育つ
全ての感情を持て余しながら
夏の終わりを見届けていた。





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冒頭の一段落を書いたのは去年の夏だったのですが
そのまま続きを書かぬまま機会を逸した為に今年に持ち越し(笑)
ギリギリ夏…かな
もう冒頭を書いた時点での結末を全く覚えていなかったので
多分当初考えてたものとは全然違う気がするんですが…
いや でも確かこんな雰囲気のやつだった気がする…(自信は無い)
ひと夏の経験(いやらいしね!)でちょっとだけ大人になった二人の話。
離れてる時のあれこれは腐るほど描いたけどエーリッヒ側の心境の変化とかは
あんまり描いた覚えがないなーと思って…
いつもシュミットが一方的に寂しがりっこなだけなんで。
てゆーかいい加減この半年の無限スパイラルから抜け出さなくては…
と思いつつ気が付くとまた描いてるのでした;;
もういい加減読んでる皆さんが飽き飽きなのではないかと心配。
20030919