・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 荷造り 荷造りという作業はそれが例えどんな楽しみな旅行の支度であっても一種の憂鬱さを孕んでいる。 ひとつひとつ必要なものとそうでないものとに分類していく作業そのものに倦んでいく。 たくさんのものから自分にとって真に必要であるものを選び取るのは存外に難しい。 あれもこれもと欲張れば、途端にスーツケースは満杯になってしまう。だからそれらから少しずつ“いらないもの”を選んで捨てていく。 取捨選択の繰り返し。 そういうことがたまらなく苦手な人を一人知っている。 彼はきっと始めてから早々に匙を投げてしまうだろう。 彼に言わせると「必要でないかそうでないか予め判断するなんて馬鹿げている」行為らしい。 本当に必要なものはその時になってみないと分からないじゃないか。 もちろん、そんなのは単なるへりくつにすぎない。 どうしたって最後には観念してその馬鹿げた行為を完遂しなければならない。 そうでなきゃどこへも行かれないのだ。 彼ひとりだとらちがあかないので結局は僕も手伝う羽目になる。 (その頃には僕自身の支度などとうに終わってしまっている) 僕は決まってこう言う。 「荷造りくらい一人でできないでどうするんです? これじゃあ、一人じゃどこにも行かれませんよ。」 そして決まって彼はこう返す。 「一人でどこにも行かれないなら、行かれないでいいのさ。 私はどこへだって行くつもりはないよ。」 お前なしでなんて。 言外にそう言い含めて荷造りを手伝う (というかこの時点では既に殆ど僕が彼の荷造りをする態になっている)僕の手を止めさせる。 その言葉の、疑いの無い声色にいつも戸惑う。 その言葉の、真っ直ぐに投げられる信頼に。 僕はそこで息をひとつつく。 「じゃあ、あなたは僕なしではどこにも行かれませんね。」 彼が乱雑に詰めて皺になってしまったシャツを直しながらその言葉の意味を考えてくらくらする。 信頼と依存はとてもよく似ているものだ。 じゃあ、あなたは僕なしではどこにも生かれませんね。 依存と執着は更によく似ているものだ。 もはや僕らは同じ時間を共にしすぎていてそれらの区別をうまくつけられない。 そのことに危機感を感じないでもない。 しかし、今回は勝手が違うのだ。 彼はどうしたって一人で荷造りをせざるをえない。 僕がここにいる以上は。 彼はおそらく今時分途方にくれてしまっている頃だろう。 開け放たれたスーツケース。衣類や洗面道具、マシンをメンテナンスするための工具類。 その他長い滞在に備えての生活用品。 それらが散乱した床の上に所在無く座りこむ彼の姿が目に浮かぶ。 困り果ててしまっているだろう彼の姿を想像して意地悪くも少し笑ってしまう。 彼はどんな顔で黙々とそれをこなすのだろう。 諦めて淡々と作業をするだろうか? それとも途中でやはり癇癪を起こし不機嫌な面持ちだろうか? 作業の途中に今ここにあいつがいれば等と僕のことを思い出したりするだろうか? それらをこの目で確認できないのはとても残念なことだ。 今まで甘やかしすぎた自分の責任も多少ないとも言いきれないのでやはり少し胸が痛む。 「エーリッヒさん。かけないんですか?電話。」 突然背後から声をかけられて現実に呼び戻される。 「え…?電話が、どうか?」 2軍チームのまとめ役となっているクレッセンがおずおずといったかんじで声をかけてくる。 いつから彼はそこにいたのだろう? 思考に没頭するあまり周りに気を回していなかった自分に気づき少し恥ずかしくなって声が上ずってしまう。 「さっきから、ずっと電話を睨んだまま 押し黙ってしまっていたので…何か問題でも?」 一瞬。 言葉を失ってしまう。 電話を? 僕が? 視線の先には成る程ロビーに設置された造り付けの古めかしい電話器が佇んでいる。 (しかしこの電話はこの建物の中では唯一国際電話のかけられるものなのだ) 「いや…別に電話は…」 かける用はないけれど…。 僕はそんなに(後輩に思わず声をかけさせてしまうほどに)難しい顔で電話を睨んでいたのだろうか? 「そうだな。丁度かけようかどうか迷っていたところなんだ。」 君のおかげで踏ん切りがついたよ。ありがとう。言ってその受話器をとる。 受話器はその外見の古めかしさに相応しく、ひんやりと冷たく重かった。 どこへ? それは問うまでもなく。 指が覚えている番号の頭にいくつかの慣れない数字を付け足して (しかしそれらも何度もそらんじてすんなりと押せてしまうことに苦笑しながら) 少しの間があってくぐもった呼び出し音が響く。 彼は何度目でその受話器をあげるだろう。 そしてどんな声で受けるだろう。 それを目の前で確認できないのもまた残念だ。 彼が受話器をとったら僕はこう言うだろう。 「もし今あなたがお困りのようでしたら。 お手伝いしましょうか?」 僕の手におえる範囲で宜しければ。 物憂さを一枚ずつスーツケースに詰めこんで。 荷造りをすませて早くここへ来て欲しいのに。 信頼と依存と執着と。 あとひとつ付け足すなら恋愛もとてもよく似てる。 それらを全部スーツケースに詰めこんでもうすぐ彼はここへやって来る。 一人では整理のつかないまま。全てまぜこぜで倒れこんで来るだろう。 お前なしではやはり私はどこへも行かれないよ。 僕はその整理のつかない言葉にまたくらくらさせられてしまうに違いない。 結局のところ僕だってそれらをきちんと整頓できない。 |