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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 思い出はいつもお日さまの匂いがする 霧の晴れた空は嘘のように晴天だった。 きらきらと晴れた空はペンキで塗り固めたみたいに硬質で薄っぺらな色をしている。 晴天であればあるほど、それはより作り物めいて見えるのはなぜだろう。 私はすっかり冷えてしまった手をポケットに乱暴に突っ込んで ばさばさと風を切りながら足早に進む。 革靴の踵がかつかつとアスファルトを叩く音が 静かな路地にやけに響いて耳障りだ。 途中、冷たい空気に晒された耳がじんじんと痛んでマフラーを忘れたことに気がついたがもう戻るわけにはいかなかった。 そもそもこんな寒い中を一人で歩いているのはエーリッヒのせいなのだ。 これで風邪でもひいたらあいつを一生恨んでやる。 なんだってこんなに腹を立てないといけないんだろう。 実にくだらないことだ。 ポケットの中の冷たい手を堅く握り締めて悪態をつく。 なんだってあいつなんて好きになってしまったんだろう。 私は目を閉じて思いきり冷たい空気を吸い込んだ。 流れ込んでくる冷気に肺が痛むのも構わない。 少しでも冷静にならなくては。 今朝方の霧のせいで少し濡れたベンチにコートが濡れるのも構わず腰を下ろすと 衣服を通してしっとりと冷たさが伝わってくる。 どう考えても分が悪い。 まじめで常識で固められていて、その上に鈍い。 よりによって、あんな難しい相手を選ぶこともないのに。 こうやって癇癪を起こして飛び出していくのもいつも私の方だ。 そう思うと悲しくなる。 あいつはいつも、困ったような顔をして黙ってしまうだけ。 私の怒りがどうやったら収まるかを考えているだけ。 ケンカにもなりはしない。 昔はくだらないことでよくケンカもしたのに。 時を経てすっかり諦めることを覚えてしまった相手と、未だに諦めることをしない自分に苛立たされる。 こんなのちっとも対等でなんかない。 目を閉じて先ほどのやりとりを反芻する。 「何とか言ったらどうだ」 苛立ちを隠そうともせずに投げ出された言葉はひどく剣呑に響いたことだろう。 「お前、なんで私がこんなに怒ってるのか分かってるのか?」 「……すみません」 エーリッヒ、それは謝るタイミングを違えてしまっているよ。 私は謝って欲しいんじゃないのに。 エーリッヒに謝られると、私はまるで自分が思い通りにいかないで癇癪を起こす赤ん坊になった気持ちにさせられる。 怒りたいのか、泣きたいのか分からなくなる。 実際、自分が今目の前にいる相手を殴りたいのか抱きしめたいのか判別がつかなくなってしまう程だ。 ただわけのわからない激情に体を震わせて、次の行動を選択できずに立ち尽くし、結局は部屋を出て行く羽目になる。 自分の部屋から逃げ出さずにいられないなんて、こんな格好の悪い話はない。 ここのところそんなことを繰り返してばかりいる。 いい加減、限界がきてるのかもしれない。 長く一緒にいるとどうしたって壁にぶち当たる。 お互いが別の生き物である限りいくばくかのズレが生じるのは仕方ない。 問題はそのズレを如何に受け入れるかだ。 恋を始めた時には振り向かせることに必死で思いつきもしなかったことだ。 私はもう一度大きく息を吸い込んだ。 外気の冷たさは変わらないが先ほどよりも慣れた体が冷気をなんなく受け入れる。 見上げれば相変わらずの晴天。 穏やかな昼下がり、ゆったりとした時間が流れる街の中で私一人あくせくとして浮いている。 ケンカの原因はいつも下らない些細なことだ。 冷静になればいちいち引っかかるようなことでもなんでもない。 ただケンカを仕掛けるたび、それを返してくれないエーリッヒに私が勝手に失望してしまうだけ。 私のわがままにすぎないのかも知れない。 いつかエーリッヒが言っていたことを思い出す。 『僕は何かを考えてから口にするまでにとても時間がかかるんです。 どうしてもその言葉が持つ意味とか、影響とかを考えてしまうから。 どう受け止められてしまうか分からないまま気持ちを外に出すなんて 怖くてできないんですよ』 臆病なだけなんです。 だから、僕の言葉を引きずりだすのはとても骨が折れますよ。 あなたのように感情のままにぶつけられるのは 自分に自信のある人の特権なんです。 言外にだから自分を選ぶと後悔することになりますよという訓辞を言い含めて。 私はその言葉を否定したかった。 自信なんて、これっぽっちも持ち合わせてなんていない。 ただ私にはそれしか武器がないので、そうする以外にないだけなのに。 お前を手に入れるのに、 全てを投げ出してかかる他にないだけなのに。 ただの捨てっぱちの行為にそんな理由を勝手につけないで欲しい。 そして私は今正にそのエーリッヒの言う『言葉に出るまでのタイムラグ』に後悔させられつつある。 気長にやっていけばなんとかなると思っていたのに。 なかなかに難しく、そうたやすくは解決してくれない。 焦れてしまう私に、エーリッヒは益々言葉を見つけられず立ち往生してしまう。 自分がこんなに我慢のきかない人間だとは思わなかった。 不安で、不安で仕方ない。 結局のところそれなのだ。 不確かで不安定ですがりつくものもない。 自分の行動にさえ自信が持てずに、身の振りように困りやっぱり立ち尽くす。 エーリッヒの考える癖がうつったみたいに。あれこれ考えて動けなくなる。 あいつと一緒にいられるだけで良かった頃もあったのに。 今日みたいに天気のいい日に、寒いのも構わずこの広場の芝生で、あるいは噴水のへりに腰かけて、何時間でも話していられた。 いつだって内容なんて関係ないくらい楽しかった。 それらはいつも思い出すと、(たとえ雪の日だとしても)お日さまの匂いがするきらきらした時間だった。 そんな気持ちを、一体どこへ置いてきてしまったんだろう。 今日だってこんなに天気がいいのに。 もうどんなに深く息を吸い込んでもお日さまの匂いがしない。 きらきらとした思いは返らない。 ただ息を吸い込むたびに 自分の中身が空っぽになっていくような気持ちにさせられるだけだ。 だって隣にあいつがいない。 置いて来たのは自分のくせに。 後悔するのはいつも自分のくせに。 私は冷たいベンチに腰かけたままコートのポケットに入った携帯電話を取り出す。 財布も、マフラーも忘れてきたくせに携帯だけは持っている自分に苦笑する。 こういう時エーリッヒは絶対に電話をかけてきてはくれないと知っているのに。 しかし何もこれは、かかってくるのを待つためだけのものではないのだ。 私はもう一度深く息を吸い込んでから決意を固める。 覚悟を決めて、手早くダイヤルする。 (この番号はアドレスに入っていない。自分でかけることはないからだ。) 5回目のコール音で受話器があげられる。 「…はい」 遠慮がちな応対の響きが耳に染み入っていく。 「こら。誰が勝手に電話に出ていいと言った。」 そこは私の部屋なんだぞ。 「…すみません。」 申し訳なさそうに言って でも、とその声は続けた。 「でも、あなたのような気がしたので」 その言葉にぎゅっと目を瞑る。 それから時計台の針を見やる。 私が部屋を出たのはもう2時間も前なのに、こいつは鳴るとも知らぬ電話の前でじっと待っていたんだろうか? 胸の奥がぎゅっとなる気持ちを悟られないようにわざと刺々しい声で言う。 「ばか、自分の家に電話する奴があるか。 するなら、お前の家にするよ。なんで帰ってないんだ。」 「…すみません。 でも、じゃあなんで今ここにかけたんです?」 家にかけたって出ないなら携帯にかければいいだけの話。 さすがにもう言い訳なんてできやしない。 お前は考える分、たくさん盾を持ってしまっているから。 正直に、ならざるをえない。 「だってお前が出るような気がしたんだよ。」 自分でも呆れる。 迷わず自宅に電話して、予想通りの相手が出て怒り出すなんてどうかしてる。 そもそもエーリッヒが出るなんてどうして思ったんだか。 「お前家主がいないのにいつまで居座る気だ? 図々しいにもほどがあるぞ。今すぐ出て来い。」 「…すみません。」 自分で置いて来たくせに、無茶なことを言う私をエーリッヒは責めたりしない。 釈然としないながらもこういう時は何を言っても無駄だと言う事を分かっているのだろう。 こういう時のエーリッヒの「すみません」は、嫌いではないなと確認する。 私はエーリッヒがそうすることを分かっていて安心して無茶なことを言う。 ばかみたいにこれの繰り返し。 私は時々感心してしまう。 こんなことでよく愛想尽かされないものだ。 それすらも彼は『考えてしまう』のだろうか? 私は彼の中で永遠に保留中なのだろうか? それを聞きだせずにいる私の臆病さを、知りもしないで。 私はもうすっかりそこを飛び出した理由など忘れたように。 最後にこう付け足すのを忘れない。 「出るときに私のマフラーを忘れるなよ」 外は寒いんだからなるべく早く、な。 私がすっかり空っぽになってしまう前に、 なるべく早くここへ来て。 どんなに不安でも、気に入らないところがあっても、 お互いを手放すことなんて思いつきもしない。 不器用なやり方でしかやっていかれない二人は、 今日もきっとお日さまの匂いがする。 |