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どうしたって切ない



彼が珈琲の味を覚えたのがどの店だか知ってる。
あまりにも印象深かったので僕は今でもそれをよく覚えているのだ。

「お前は知らなくていいんだよ」

添えられた言葉のせいでもあるのだけれど。
知らなくてもいいと言いながらその声は別の言葉を飲みこんでるみたいにかすかに震えていた。
ため息みたいに零された言葉だ。

僕はその言葉に「何を」だとか「どうして」だとか
質問することを許されないような気がしてじっと黙って見ていた。
その時に彼が飲んでいたのがそれだった。

白い手の中におさめられたカップの中に丸く残った暗い色のそれは濃く重く苦い。
シュミットはそれを眉間に皺を寄せて難しい顔をもっと難しくして
実に不味そうに少しずつ口をつけていた。

まるで本当に言おうとしていた言葉と共に飲み下していくように
ゆっくりと、少しずつ。



「なんだってケンカなんかしたんですか」
僕は小さな丸い木製のテーブルの上で湯気を立てているふたつのカップを見下ろしてもう何度も繰り返した質問を再度口にしてすっかり途方にくれてしまっていた。
顔を上げてもシュミットはさっきと変わらずぐっと押し黙ったまま視線を合わせようとしない。
そう広くは無い店の中は温かい湯気がこもって温められている。
他の客はめいめいに好きなものを飲み、連れ合いと楽しそうに会話を楽しんでいる。
僕はもう一度視線をテーブルに移す。
僕の目の前には僕が頼んだホットチョコレート(あまり甘くないやつ)と、 シュミットが頼んだブレンド珈琲が運ばれた時のまま行儀良くソーサーに華奢な銀のスプーンを乗せて並んでいる。

大体にして近頃のシュミットはおかしい。

今だって飲みつけもしないくせに珈琲を頼んだりするなんて。
僕の知る限り、彼が珈琲を飲んだ事など一度もない。
この店での気に入りは僕と同じホットチョコレートだったはずだった。
この店の出すのは他とは違って濃厚なくせに甘ったるくなく最後まですっかり飲めてしまう。
チョコレートと言うよりもカカオそのものの味がするなんて言って
この店で他のものを好んで飲むなんて馬鹿のすることだとまで言っていたくせに、ブレンド珈琲。
ここ数日僕はシュミットに避けられているような気がしていて今日は無理からに彼を誘ったのだ。

しかし下校時刻を待たずにその事件は起こってしまった。


 昼休み、僕が今日の誘いをふいにすることのないようにと シュミットに念を押そうと彼のクラスを訪れると彼の姿はそこになく、 所在無く扉の前で立ち尽くしていると僕の姿を見つけた赤毛の少年が声をかけてきた。
「シュミットならさっき大立ち回りをやっちまって職員室に引っ張って行かれたぜ」
彼はさも大事だと言う風に事の顛末を丁寧に教えてくれた。
何でもクラスのお調子者が余計なちょっかいを出してシュミットの逆鱗に触れてしまったらしい。
しばらくは煩そうにかわしていたシュミットが、突然ものすごい剣幕で掴みかかっていった。
あんなに声を荒げて怒るシュミットは初めて見たのでクラス中が驚いて暫く誰も止めることができずにいたので、
相手の顔は目も当てられない状態で彼の憶測によると歯を2、3本折ったかもしれない大惨事だと言う。
(後に確認したが相手は口の中を少し切った程度の軽傷だった。どうも彼には事を大袈裟にする癖があるらしい。)
赤毛の少年は興奮気味にそこまで一気にまくしたてると僕の顔をじっと見つめて
何度か大きな目を瞬いて考え込むようにしてからこう付け加えた。

余計なお世話かもしれないけど。と前置いてから。
「余計なお世話かもしれないけど、
 多分その原因の一端は少なからず君にあると思うんだ。」
でなきゃ彼もあんな向こう見ずなことはしなかったろう、と。

僕は驚いて思わず問い返した。
「じゃあそのケンカは僕のせいだと?」
思いがけない言葉に思わず剣呑な問いになる。
一体なんだって、僕のことが『少なからず』原因の一端になると言うのだろう。
彼はしかしその問いには答えず罰の悪そうな顔で辺りを伺い、
目撃者が他にいないことを確認すると
「今のは忘れてくれ、できれば僕がそれを話したと彼には話さないで欲しい」
あいつの二の舞はごめんだと言ってそそくさと奥へ引っ込んで行ってしまった。

言いたい放題言っておいて「忘れてくれ」も何もない。
忘れられるものか。

残された僕はさっぱりわけの分からないままで呆然と佇んでいた。
分かっていることと言えば、いつまでもここにいたってどうやら誰もその疑問に答えてくれそうにないことと、 シュミットが『少なからず』僕のせいで暴力をふるって職員室に呼び出されているということだけだった。


それで益々今日シュミットとどうしても話さなければと思ってやって来たのに。
当の本人からも事の真偽を確かめられないでいる。
シュミットは元々そう穏やかな性質とは言い難いにしても、不機嫌な顔こそすれ、 級友にからかわれたくらいで手を出したりするとは思えない。
『そんな向こう見ずなことはしない』のだ。

最近のシュミットはおかしい。
その原因の一端も『少なからず』僕にあるというのだろうか?
混乱させられることばかりだ。
僕はそこで考えを止めてもう一度シュミットの方に向き直る。
顔をあげるといつの間にか僕を伺うように見ていたシュミットと不意に視線がかちあって彼は驚いたように慌てて目を背けた。
その到底彼に似つかわしくない行動に僕はすっかり失望してしまう。
この人が視線を外すなんて、そんな所在なさそうにしているだなんて。
他ならぬ僕に対して。
それら全てが僕のせいかもしれないなんて、考えるだけでとても悲しい。
胸の奥がすうすうして何だか泣きたくなってくる。

小さなテーブルを挟んで寄り添うように向き合って、少し手を伸ばせば触れる程側近くにいる。
だのにこんなにも遠くに感じてしまうなんて、切ない。

口を開いて沈黙を破るのが怖いくらいだ。

重く暗い、カップにまだなみなみと残っているその液体のように。
苦い想いが広がっていく。
だけどもうこんな変な状態は終わりにしなくては。
すっかり軌道を失ってしまった僕らの行く先を決めてやらなければ。
たとえ悲しくても、いつまでも立ち止まってはいられない。

「…目も合わせたくないほど、なんですか?」
「え?」
「目も合わせたくないほど
 僕のこと嫌になってしまったんですか?」

自分の言葉に、突き落とされそうになる。
避けられてるとは思っていたけど。
まさかシュミットに嫌われてしまうなんてことを今まで思いつきもしなかった自分の思い上がりに目の前が暗くなる。
さっきまで小さな染みのようにぽつんと僕の心に暗い影を指していた『それ』は、
口から滑り落ちたとたんにいやに真実味を帯びていく。じんわりと痛みのように空気を通して広がっていく。
嫌いに、なってしまったなら。全部納得のいくことなのかもしれない。
どうして今まで気づかなかったんだろうか。

もう彼は僕とは友達でいたくないのかもしれないってこと。

「違う。」
唐突なくらいきっぱりとした否定の言葉だった。

「お前を嫌いになんかは、ならない。」

ゆっくりと僕に言い聞かせるように。
それから、もう一度。
今度は搾り出すように。

「お前を嫌いになんかは、なれないよ。」

だけど一度起こってしまった混乱はそんな否定の言葉くらいでたやすくは収まってくれはしない。
「シュミット」
どうしたら元に戻せるのだろう。

「でもあなたは現にここ数日僕を避けるようにしてすごしたり、僕の知らないところで『僕のせいで』争いごとを起こしたりしてる。
 ここのところ全ての良くない事が僕のせいで起こっているというのに、当の僕は原因をつかめないでいる。
 お願いです。僕のせいならはっきり言って下さい。でないといつまでも混乱したままだ。
 わけのわからないことで僕らの中はすっかりこじれてしまっている。
 その理由すら教えてもらえないんですか?」

それとも、請うのではなく自分で気づかなくてはならないのだろうか。
何かに。
僕は何かを見落とし続けているのだろうか。
昼間の赤毛の少年の言葉を思い出す。

『原因の一端は少なからず君にあると思う。
 でなきゃ彼もあんな向こう見ずなことはしなかったろう。』

「それは、お前のせいなんかじゃないよ」
誰がそんないい加減な事を。と驚いたように非難の声をあげる。
今はそんなことは問題ではないのに、はぐらかされそうになって益々意地になる。
「でも、じゃあなんだって僕を避けるんです?
 ケンカの原因も言えないというし。
 それでは僕は八方塞りだ。」
だけどシュミットは僕の質問には答えてくれる気配もない。
「お前のせいなんかじゃないよ。
 そんなものはひとつもないと誓って言える。」

悪いのは私なんだ。
全部私のせいなんだ。
全てが私が招いた混乱なんだ。

「避ける、つもりはなかったんだ。
 ただ整理がつかなくて、ひとりでいたかっただけ。
 お前といると……零れてしまわないか、不安で」

シュミットは慎重に言葉を選びながら弁明する。
具体的な一切の主語を省いて。
一体そうまでして何を隠しているのだろう。
そんな苦しそうに何を抱えてしまっているんだろう。
僕は悲しくて。
目の前の相手の胸の内をすっかり切り開いて、彼を苦しめるそれを取り出してやりたい衝動に駆られる。
そんな切ない風で何を零すまいとしているのだろう。
いっそ零して、しまえばいいのに。
全て。
きっと僕は恐れはしないのに。

僕はすっかり冷めてしまったホットチョコレートのカップを両手で包みこんで小さくため息をついた。
一度冷たくなってしまったそれはちょっとやそっとの温もりなんかじゃ温まりはしない。
陶器の白い冷たさが僕の体温を奪っていく。
ゆるゆると広がっていく失望が絶望に変わっていく。

「僕には教えてくれない気なんですね。」

何もかも秘密にしてしまう気なんですね。

「…ごめん。」
シュミットは今にも零れてしまいそうな『何か』を押しとどめるように両手で口元を覆う。
その祈るような敬虔な仕種で道を塞いでしまう。
「これからもきっと、お前には言うことはないと思うよ。
 生涯、守り続けなければならない秘密なんだ。」

でもお前のせいなんかじゃ、ないんだよ。

付け足された気遣いの言葉にますます目の前が暗くなる。
行く先を失ってしまったままでこれからどうしたらいいのだろう。
「いらない心配をかけてごめん。
 もう、大丈夫だと思う。」
少し迷ったようにして僕の手にそっと自分のそれを重ねる。
まるで初めて子猫を触るみたいに慎重な手つきで。
僕がひっかきやしないか恐れているように。
少し汗をかいたその手はひどく冷たくてよそよそしさに拍車をかける。

「これからもずっと友達でいてくれるか?」
「勿論ですよ。」
そんなこと、何を今更と。
なるべく軽い響きを持つように『努めて』明るい声で言ってシュミットを見ると、
なぜだか彼は痛みに耐えるように眉根を寄せて『努めて』明るい笑顔を作ろうとしていた。
僕はその切ないちぐはぐな表情に気づかないふりをして曖昧な笑顔を返した。
そうすることが今は一番いいように思えたから。
彼にとっても、僕にとっても。

僕らの行く先は未だ宙に浮いたまま軌道は失われたままで、
だけどそれでも明日へと続く足がかりをつかみ損ねるわけにいかない。
僕もシュミットもお互いを失うわけにいかない気持ちでいることは確かなので、
そうする以外に方法が見つけられない。

無言の取り決めの元、
明日からも僕らは今日のこの日を見ないふりをして
また元通り『友達』でいるだろう。



今にしてよくあの頃のことを思い出す。
顧みては彼の行動の一つ一つの意味を今更に知る。
あの時、彼が懸命に守ろうとしたものも。
ケンカの理由も。
零すまいと唇をかみ締めた言葉も。
今なら分かるような気がする。

彼が生涯守ろうとした秘密は、それから何年か後には二人の秘密になってしまったけれど。
そうなった今でも、あの頃の彼を笑うことなんてできない。
あの時、もし彼がそれを守っていなければ
僕らが今この同じ場所に立っていられたかなんて保障はどこにもない。
仮にもし彼が踏み止まらず僕を抱きしめたとして、
あの頃の僕がそれを受け入れられたかなんて到底思えない。

彼は随分と長い時間をかけてたった一人で戦い続けてきたから。

いつだって安全な位置にあるわけじゃない。
気を抜いていい時なんて一秒だってない。
お互いに。
だけどきっと一人きり戦うよりも、
二人きり戦う方がずっとずっといいに違いない。
何が一番いいかなんて分からないけれど、
それでも明日へ続いていかなきゃならない僕らは手探りで少しでもましな方法を見つけて生きていくだけ。


今でもシュミットは珈琲を飲むときに顔をしかめる癖が抜けない。
それは何度注意しても直らず、無意識につい難しい顔になってしまうらしい。
まるであの時の苦しい想いを繰り返すみたいに、
彼は珈琲を飲むたびにあの頃の気持ちも一緒に飲み下す。
僕にできることといえば、黙って彼のために少しでも苦くない珈琲をいれてやるだけだ。

でもやっぱり
あの頃のことを思い出すたびに、
彼が珈琲を飲むたびに、
どうしたって切なくなってしまう。

それはキスの合間のため息にも似て、
どうしようもないことなのだ。





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初出2006年2月11日発行「らせん階段」
同再録と同じく。
エーリッヒさん視点で回想なんぞ。
シュミットの好物→コーヒーというオフィシャル設定が未だに信じられず(笑)
てゆーかコーヒーて、砂糖もミルクも入っとるべった甘のやつやろお前とか思ってます。
101話でブレットと飲んでたのがどう見てもU○Cのロング缶だったので。
お子様なりの背伸び回答と解釈しております。
てゆーかコーヒーとかは好物に入らないと思います。ミハエル様に並び。
あと嫌いなもの「甘いもの」も同様に釈然としない。
またその話は別で。
ちなみにこれに出てくるホットチョコレートにはモデルがあります。
実際のはちょっと高いのでお子様が気軽に飲めるものじゃないですけど(笑)
甘くなくて、でも鼻血が出そうなほど濃いチョコで非常においしいのです。
それを飲んだときに
「シュミットもこういうのなら飲むかなー」と思って考えたお話です。
うーんそんなことばっかり考えているのね私・・・。

20060215