・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 幸せな体温 「明日は朝が早いから」という一言でそれを断られた。 誤解を招かぬように言っておくと 私は別に邪な申し出をしたわけではない。 それは私の数多くのお願いの中では 至って健全な、むしろ可愛らしい部類のものだと思う。 その夜は春先にしては少し肌寒くて つい隣のベッドに眠るかの人が恋しくなってしまった。 欲望としてではなく、単純に その温もりに触れたいと思ったのだ。 ただ、こんな夜に 寄り添って眠るのはこの上ない幸せに思えて。 「一緒に眠らないか?」 その提案はとてもいい思いつきのように響いたし 何の含みもない素直なものだった。 それを聞いたときのエーリッヒの表情からも。 すべての条件において その提案は受け入れられて然るべき状態だった。 しかし、ふと一瞬 表情を曇らせてあいつは言った。 「すみません。 明日は朝早いので、今日は…」 ベッドに腰を下ろして 真っ直ぐにこちらに向き直った姿勢で 心底申し訳なそうに断りを入れるエーリッヒに 私は軽いショックを覚えた。 至極健全な申し出なのに、 そういう意味にとられてしまったと感じたからだ。 「別に、しようってわけじゃないんだ。 ただくっついて寝たいだけなんだから 問題はないだろう?」 普段の行いが行いなだけに 言葉尻一つ一つにも慎重に言い訳をする。 「そういうわけではなんですが…」 言いにくそうに口篭もりながら それでも拒絶の意を翻そうとしない。 こうなったら意外に頑固だということを知っている。 「なんでだよ 何もしないって言ってるのに。 信用、ないな」 「…………」 その日のエーリッヒは別段機嫌の悪いということもなく 変わらずに優しい声をしていたし。 優しく断られるのは あからさまな拒絶よりも少し、辛い。 エーリッヒにはたまに そういう私の窺い知れない理由で 他人を立ち入らせまいとするところがあった。 私は何もかもお前にあげたいのに。 お前は私と同じには思ってくれないのだ。 そんな時お互いが 少しだけ遠くにいるような気がして 胸が、詰まる。 「理由くらい、教えてくれよ」 こういう時なぜ?ときいて 彼が答えてくれることは稀だが それでも聞かずにはいられない。 私は私側のベッドにやはり腰を下ろしたまま。 そこから離れることも、 ましてやあちら側に渡ることもできずに ただエーリッヒを見つめるしかできなかった。 何を考えているのか 知りたいのに 「理由…ですか?」 返す対岸の相手は実に決まり悪そうにしながらも その視線を外すことはしなかった。 「………」 暫しの沈黙と 軽い 諦めの ため息 先に白旗を上げたのはエーリッヒだった。 私が引く姿勢を見せないので 沈黙を守ることを放棄したのだ。 その諦めるまでの時間の短さに 今日はガードが甘いなと その誤算に肩すかしを食う。 私はもとより長期戦を覚悟でその問いを持ち出したので。 「…一緒に眠るのは、いやなんですよ 特に、次の日が休みじゃない夜は」 黙って見つめることで 先を促す私に エーリッヒも完全に降伏の意思を表した。 その時の、視線を少しだけ外したエーリッヒの 隙間から見える恥ずかしい、というよりも 悔しそうな表情。 「だってね、 一緒に眠った次の日の朝は どうしたって 起きるのが億劫になってしまうんです。」 「億劫に?」 その表情と、口調と 言葉の意味を図りかねて ただその言葉をなぞって探りを入れる。 「一度くっついてしまったら 引き離すのは難しいんですよ。 特にあなたは 温かいし、気持ち良くて 離れがたくなってしまう」 だからどうしたって寝坊してしまうに違いないと ずいぶん自分勝手な言い分を並べる。 「なんだ、それ そんな理由で?」 「……悪かったですね そんな理由で。」 拍子抜けして思わず漏らした私の言葉に、 それを白状したのが余程悔しかったのか 少し拗ねたような口調で言い返してくる。 いつもの落ち着いた声とは違って 年相応のふてくされた少年の声で。 その様子がひどく幼く見えて愛しく、 手を差し出し、距離をはかる。 そこには何のわだかまりも無く、 伸べられたてのひらにそっと触れる。 もはや対岸は遠くの岸辺ではなく 私はやすやすと浅瀬を超えて向こうに渡ることができた。 手をつないだまま エーリッヒの脇に腰掛けると ごく自然な動作で私の肩に頭を預けてくる。 「朝離れるのが辛いから 一緒に寝てくれないのか?」 預けられた頭のやわらかな銀色に唇で触れる。 「…いけませんか?」 「いけないな」 その答えが少し意外だったのか エーリッヒは顔を上げて2、3度大きく瞬いた。 「そんなこと言われたら 何もする気がなくたって 何かしたくなってしまうじゃないか」 「だっ だめですよ!」 続いた私の言葉に慌てて逃げの構えをとる。 そのあまりにも正直な反応に思わず声をあげて笑ってしまう。 それから、大丈夫だと優しく抱きしめて 「冗談だよ。 要は、離れなければ いいわけだろう?」 問題無いじゃないかとこともなげに言う私に しかし彼は異論があるらしい。 「…一緒にいればいいっていう 意味じゃないんですけど…」 やぶへびを承知でぽそりと呟いた言葉は 今夜の彼の言葉の中でも多分最も本音に近いだろう。 「分かっているさ」 「悪いが私は お前なんかよりよっぽど そんなことばっかり考えているからな。 任せておけよ。」 そのことに関しては、引けをとらないと自負している。 「何を?」 「対策。」 だから今夜は私を信じて 明日になっても寂しい思いをさせはしないから。 「本当に何もしません?」 疑り深く確認してくる口調は すでに私の要望を8割方了承してしまっている口ぶりだ。 私はしかつめらしく右手を胸の高さにあげて 今夜の潔白を神に誓ってみせた。 それでもはや今夜の裁量は下されたも同然。 照明を落として二人で潜り込んだ一枚のシーツの海で 慌てて一言付け加えるのを忘れない。 「あ、でも ひとつだけ」 「何です?」 「おやすみのキスは、しても?」 さらりと要求される付帯項目に 一瞬の沈黙。 たじろぐようならここは引いてもいい。 「さ、触るだけのなら…」 「ありがとう」 条件付でも許可をくれたことに素直に礼を言って 約束通り軽く触れ合わせるだけの短い口付けを落とす。 渋々といった風に了承したくせに 自分の出した条件に寸分違わない軽すぎるキスで 「おやすみ」と抱きしめられると 腕の中でこっそり名残惜しげなため息を漏らした。 「おやすみなさい」 一人で眠るには少し肌寒い室温が 二人で寄り添うには素晴らしく適温に感じられる。 シーツの中はしあわせな温度で満たされて 一日の疲れを和らげるようにゆるゆると眠りに誘われる。 眠りの波間からふと意識が覚める度、 側近く聞こえるゆるやかな寝息と、抱きしめた温かさに また沖へと押し流されていく。 眠気に霞み、薄れる意識の中で これ以上の贅沢はないな、と思った。 この上ない幸福に満たされた 甘い 至上の時だ。 翌朝。 久々に夢も見ないでぐっすりと眠り込んでしまい、 やはりエーリッヒの言う通り少し寝坊してしまった。 予期した通りの結果に 「ほらね」と言って不平を述べながらも エーリッヒはうまく怒った顔が作れずにいて、 私も「ごめん」と謝りながら うまく反省した顔ができずにいた。 二人とも言葉と表情がてんでちぐはぐで そのことすら面映く、幸せな光景に思えてしまう。 その日は許す限り一日中机の下や人ごみで 見えないように隠れてずっと手を繋いで過ごした。 「まさかこれが昨晩言ってた 『対策』だなんて言うんじゃないでしょうね」 声を潜めて問うてくる彼に 「…だめかな」 いい考えだと思ったんだけど、と 私のより数センチ上の顔に上目遣いにきいてみると 「ふざけてます」 との答え。 でもやっぱりその顔は うまく怒った顔が作れないでいたし、 余計に落ち着かないと言いながらも その手は結局ほどかれることはなかった。 |